昭和の奄美シマ唄 唄遊び
私がまだ幼少の頃、奄美に帰省した際には、それこそ毎晩のように宴席がありました。祖父祖母はシマ唄が大好きで、近所からいっぱい人が集まり唄遊びをしていました。
その横で、私たち子供達は走り回って遊んでいたものです。今思うと残念なことですが、その頃はシマ唄には全く興味がありませんでした。
その宴席の様子を録音したカセットテープが手元にあります。整理しながら、久しぶりに聴いてみました。
古い音源なので音は良くないですが、とっても懐かしくていろんな記憶が蘇ってきます。
今は亡き祖父祖母の唄う姿、三線を弾く姿、唄いながら涙を流す姿。
途中で寝ている近所のオジさん。台所で話に夢中な伯母さん達。
嫌いだったお酒の香り、仏壇のお線香の香り、古い畳の香り、五右衛門風呂の焚き火の香り。機織り機にかかる、大島紬の艶。
シマ唄は単に奄美で過ごす時間の中では単なるBGMでしたが、自分の心の中にこんなにはっきりと残っていたのだと不思議な感覚です。
この音源は、おそらく祖父の三線で、祖母と親戚の伯父さんと父が唄っているものかと思います。
うらとみ節(むちゃかな節) いんむぃやんむぃ節
朝花節 芦花部一番節 野茶坊節
父方の祖母は、芦花部一番節が得意だったそうです。
芦花部一番節の歌詞
ハレ芦花部一番なヨー
ハレー御殿地ぬヨー、バー加那ヨーイ
ハレーくばやいちよ番なヨーハレ
実久くばやヨーホーヌフェー
ハレーくばやいちよ番なヨーハレ
実久くばやヨーホーヌフェー【歌詞の意味】
島一番の美女は芦花部の上殿内(上の方の屋敷)に住む、ばぁ加那でしょう、その、ばぁ加那に会って力を得た実久の青年達は、小走(こばや)競争で一番になった。
*ばぁ加那はノロの様な神女であったと思われ、その霊力で舟漕ぎ競争で一番になったという唄
祖父母が暮らす、浦上からも近い芦花部と言う集落の唄だと言うこともあって、祖母が良く唄っていたそうです。
今、こうしてじっくり聴いてみると、伸びやかな柔らかい声で落ち着きます。 もしかしたら、子守唄に聴いていたのかな? とも思います。
古いシマ唄は素朴で、とても癒されます。 生活の中で生き続けて来たシマ唄、もっともっと沢山の人に奄美のシマ唄を知ってもらい、そして次の時代に残して行きたいと思います。
この太鼓【チヂン】は、奄美から持ち帰ってきたものです。昭和52年に伯母さんに寄贈されたものです。
三線は、祖父が使っていたものだそうです。竿に名前が書いてあります。父から譲り受けました。大切に奏でていきたいです。
那覇は開南の神里原大通りの太田和楽器本店さんの直売棹じゃないですか!
しかも那覇市外局番0988時代!
うちにもそういう古い「斑入り黒檀」の三線棹ありますが、その縦目に綺麗なコントラストは凄いし、時代を感じます。その頃の太田和楽器の社長さんはもう亡くなられましたが、楽器材料、卸としての太田和楽器さんは那覇は少し移動しているはずですが、健在ですよ!
久しぶりにプライスレスな良い三線を見た心地になりました。
山内 様
貴重なコメントありがとうございます。
大田和楽器店さんが実在している事も知りませんでした。
何気なく父から譲り受けていたので、竿を確認したのは数年経てからです。
尚更、大切に奏でていきます。